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2021年2月7日(日)降誕節第7主日礼拝

聖書  マタイによる福音書15 章21〜31 節(新p.30)

交読詩編103編1〜13節

説教 主に叫ぶ

讃美歌 191いともとうとき、271いさおなき我を1−3節、271 4−6節

マタイによる福音書15章21~31節】 「主に叫ぶ」

 「人のことを『犬』って呼ぶなんて。イエスさまはひどい男じゃないか!」今日の箇所を聞いたある子どもは、苦虫を噛み潰したような顔になりました。港町ティルスとシドンにイエスは来られました。そこに一人の異邦人女性がやって来て「主よ、ダビデの子、わたしを憐んでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びます。女性はイエスを主、そして救い主という意味を含むダビデの子とも呼んでいます。神の約束はイスラエルのために、神がダビデの子孫から救い主を送られるというものでした。女性はイスラエルの民ではありません。とはいえイエスの「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉はあまりに酷ではないでしょうか。女性は一歩も引くことなく「主よ、お助けください」と低くひれ伏します。重ねてイエスは言われます。「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」。子どもたちとはイスラエルの人々のこと、犬とは当時、死肉をあさる汚れたものとされここでは蔑称です。本当にイエスがこんな言葉を口にされたのでしょうか。

 福音書記者マタイが付け加えた言葉であるならば、当時、救いは自分たちのものだと驕る人々の自分中心な生き方を糾弾する意図があったでしょう。しかし、もしイエスの言葉ならどうでしょう。

 女性は「主よ、ごもっともです。」とその言葉を飲み込んでいます。神の救いと恵みに限界があるのか?主の食卓はそんなに小さいのか?あなたは本気でわたしを犬と見ているのか?様々な問いを持って女性は言います。「しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。人の尊厳を損なうものに全力で抵抗する彼女は、主以外に頼るものがありません。その一言一句は、魂の叫びです。イエスは女性によって、人間として世に来られた限界を打ち砕かれます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いと通りになるように。」その時娘の病気はいやされました。

 子どもは雲が晴れた青空のように爽やかな顔になっていました。マタイ福音書にはイエスに叫ぶ人が数多く登場します。すべての叫びを今日もイエスは神にとりなしてくださっています。(森美由紀)


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