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2021年2月28日(日)受難節第2主日礼拝

聖書 エレミヤ書29章11節(旧p.1230)

    コリントの信徒への手紙一13章12−13 節(新p.317)

説教  「希望とは」  

讃美歌 191番、30番、138番


「希望とは」

 「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント人への手紙Ⅰ 13:13)

 「…それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与える者である。」(エレミヤ書29:11)


 聖書から見る希望とは何でしょうか。旧約聖書エレミヤ書29:11に希望の言葉が記されてあります。預言者エレミヤが南ユダ王国に対して預言された言葉でした。神に愛され選ばれたイスラエルはその神を捨て自分勝手な道、他の神々に仕えるような悪事を働きました。それ故、イスラエルは二分され北イスラエル、南ユダとなりました。それでもなお、立ち返ることなかった北イスラエルは滅ぼされ、南ユダもバビロニア帝国に滅ぼされ、南ユダの民は補修の民としてバビロニアに連れて行かれる事を預言されました。しかしそのような暗い預言の中にも唯一希望として語られたのがこの言葉であります。70年後にはもう再びユダの国に帰ることが出来るという言葉でした。

 ナチスドイツ時代、ユダヤ人を匿った罪で牢獄されたオランダ人女性コーリー・テン・ブームは収容所でイエス・キリストを証し続けました。失望に飲み込まれそうな囚人たちに彼女は励ましの言葉をかけ続けるのです。『汽車がトンネルに入った時、暗いからと言って汽車から飛び降りるでしょうか。そうではなく、機関士が必ず目的地に連れて行ってくれることを信じて静かに休み待つのです。』イエス・キリストを信じてこの暗闇の中を待ち望む、一筋の希望を持って待つ時に勝利を得ることが出来るのです。この希望こそがイエス・キリストであり、救いであります。この地上にあっては苦難があり艱難があります。しかし決して失望に終わることはないのです。

 『荒野の泉』という聖書日課の著者はレテー・ビー・カウマンという宣教師であります。夫婦で日本と朝鮮との東洋の国で数年間宣教をして後、カウマン氏が病気を患い故郷に帰らざるを得ませんでした。その試みの時に多くの励ましを受けた聖言や言葉を編集したのがこの聖書日課でした。その日課の中にこのように書かれてありました。『ブラッセルの有名なレース店にとても美しく精巧な商品を織るためのいくつかの部屋がありました。これらの部屋はとても暗くただとても小さな窓が一つありました。その窓から射してくる明かりはたった一人の織物職人の手元にだけ照らすようになっていました。その職人がその明かりにあてて織りなすレースがいつも精巧に麗しく織られるのだそうです。この事は私たちが織られる時にも同じ様に言えるのではないでしょうか。時に全く先の見えない真っ暗な時、何をしているのか分からない状況の時、ただ信仰によって神に希望を置いて疑わずに進みゆく時に神は見守ってくださり、あなたの苦難と涙の中から善と美を取り出してくださるのです。=J.R.ミラー』聖書から見る希望は暗闇を通してみる事の出来る一筋の光です。そしてこの希望こそイエス・キリストそのお方であります。罪に打ち勝ち、世に打ち勝ち、死に打ち勝ってくださったお方、イエス様こそが私たちの最大の希望なのです。イエス様ご自身が苦しみを受け私たちの罪の贖いを成し遂げて救いという希望を与えてくださったことを覚え、このレントを過ごして行こうではありませんか。そして今、悩み苦しみを覚えている人の傍らに立ち共に祈り、イエス様にある希望を語る者として頂きましょう。(高橋容子)

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