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2021年2月21日(日)受難節第1主日礼拝

聖書 申命記30章15〜20節(旧p.329)

  マタイによる福音書4章1〜11節(新p.30)

説教  「主を試してはならない」  

讃美歌 191番、21-284番1,2節、21-284番3,4節

「主を試してはならない」

 受難節第1主日には、毎年荒れ野の場面が読まれます。今朝は試みや試練と呼ばれるものについて聖書に聞きます。

 イスラエルの人々がエジプトを脱出後40年の荒れ野生活での試みや、イエスがお受けになった荒れ野での誘惑を、教会は早い時期に全ての人間が、生きておれば出会う試みとして取り上げました。「あなたがたを襲った試みで、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」(1コリ10:13)。神が人を試みられ、そこで神と人との関係が深められることがあります。しかし、試みが私たち人間の力を超えることを神は決して許されません(詩66:9)。耐えられない試練は神からのものではない、と覚えておくことも大切かと思います。

 申命記では、イスラエルの人々にモーセが最後の勧告をしています。「あなたたちの神、主を試してはならない」(申6:16)。40年の旅路で人々は神を試み続けました。人は不安から、明日の安心を得ようとします。モーセが言うように人は心変わりをし、神が一番であることを忘れてしまう時もあるでしょう。試みから免除される人はいないからです。しかし希望もない、顧みられない、荒れた場所(ホレブ)で神はどうしようもなく弱い人々に恵みを与え続けてくださいました。モーセは告げます。惑わされて他の神々に仕えるならば滅びるが、主を愛し、その道に従い歩み、その戒めと掟と法を守るならばあなたは命を得、かつ増える、と。神は命の与え手です。あなたを選び、イスラエル同様に宝の民とし、主とともに歩むまことの命の道へと今日も招き続けてくださっています。その贈り物を受け取り、恵みに応答する生き方ができるのです。

 イエスでさえ試みと戦われました。しかし、イエスは決して神を試すことはなさいませんでした。み言葉に従い、聖霊に満たされていたからこそできたことです。悪魔の誘惑に4度Noを突きつけ、自らの力を証明したり高ぶったりすることなく、ただ神のみを指し示されました。神殿から飛び降るという悪魔の誘惑も拒否したイエスは、後に十字架からも飛び降りることなく、陰府という一番下へと降っていかれたのでした。その最も弱く、神に信頼しているがゆえに最も強いイエスの愛にこの受難節、生かされたいと願います。

(森美由紀)

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