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2021年2月14日(日)降誕節第8主日礼拝

聖  書 ヨハネによる福音書9章1〜12節(新p.30)

説  教 「これって誰のせいですか」  

交読詩編 107編10〜22節(p.124)        

讃美歌  191番、244番、285番


ヨハネによる福音書9章1~12節】 「これって誰のせいですか」

コロナ感染症という災害に世界中が覆われて早1年。今では対面の集まり、大きな賛美、笑顔の食卓が夢みたいに思えます。オリンピックだけでなく、ささやかな楽しみがたくさん奪われました。礼拝堂で肩寄せあって祈った在りし日のなんと尊いことでしょうか。

 誰もが失われた日々を想い、「これって誰のせいですか」と思うでしょう。しかし、誰も答えてくれない。いくら調べても分からない。もはや誰にも責任がとれないほどの大きな禍です。それでも問わずにはいられません。「これって誰のせいですか」と。

 人は答えのない問いによって対象を否定する。その出来事を失敗と断じ、不要と切り捨てることもあります。しかし、人生は理由の分からない理不尽さに苦しめられるのです。誰も答えてくれない闇の中に座り込む人さえいます。だから、イエス様が来られました。世の光として、私たちの見えない未来に目を開いて下さるのです。

 生まれつき目の見えない人の前で、弟子たちは「だれが罪を犯したからですか」(2節)と聞きました。それは同情か、哀れみか、義憤なのか。彼らの抱いた気持ちに嘘はありません。その言葉が世界を切り裂きました。自分たちと盲人の間を、道端に座るしかない彼と素通りする村人たちを。見える人と見えない人を。

 ところが、イエス様は切り裂かれた世界を「神の業がこの人に現れるためである」(3節)と結び合わされます。見えない将来に苦しみに押しつぶされた者。悪い結果の原因を探して自分がそうでないことを確認する者。都合の悪い現実から目を背ける者、助けを求めることすらできない者。陽のあたる道を歩く者、日陰に座り込む者。これらの断絶と絶望を超えて、すべての者の目が見えるようになります。

 ただ一度限りのイエス様の奇跡が、私たち自身にも起こりました。イエス様は言われます。私たちは遣わされた者としてまだ日のあるうちに行わねばならない。シロアムの池の水で洗われた私たちキリストを信じる者は、生きて働く神の業を証しすることができるのです。誰のせいでもない。この世界は神の業が現れるためにある。希望がここにあります。 (宮岡信行)


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